俳句 昭和の風景

白帆の一句鑑賞 ―― 総合誌・結社誌・句集から抄出

ここに取り上げた作品は平成13年以降数年の間に書いたものが中心で、題して「昭和の風景」とした。これに新しく書いたものを足していくという感じになる予定。気楽に読んでいただければ有り難い。




  蜘蛛に生まれて蜘蛛の囲を作るかな          今瀬 剛一  

  昭和には跡継ぎという言葉が罷り通っていた。それは貴重な存在でもあった。また分相応という言葉がある。善し悪しは別として、それは守られるべきものという考えに立っている。秩序、諦観などのイメージを伴うこのような言葉を若者は嫌う。現に親の仕事とか家業を継ぎたくないと言って、反発する事態は跡を絶たない。しかし最終的には所謂「蜘蛛の囲」を作ることに落ち着く場合が多く、しかも親を越える仕事をすることすらある。さて実際の蜘蛛の囲であるが、朝日に輝く縦横の糸の造形はまさに芸術品。蜘蛛以外の者に、これが作れるとは到底思われない。


  祭果つ夜店手荒くたたまれる            三橋  茂

  言われてみれば、店仕舞いの音はけたたましい。ライトが消され、木枠が放り投げられ、箱を足で踏みつぶす。祭は昔から町の顔役と勇み肌の若衆によって継承されてきた。祭から祭へと渡り歩く夜店も、テキ屋が仕切る仁義の世界。朝市の店仕舞のようなわけにはいかない。


 断腸亭忌日や銀座尾張町            星野麦丘人

  江戸の名残り、銀座尾張町。ほかに出雲町、加賀町など旧国名の付いた町が、昭和初期まで銀座のど真ん中にあった。四丁目の交差点は尾張町交差点と呼ばれていた。永井荷風は、本名壮吉、断腸亭主人と号した。あめりか物語、ふらんす物語で一躍名を上げ、慶大教授として「三田文学」を主宰した。華やかな一方、晩年は形骸化した文明への嫌悪を抱き、江戸趣味を強めてゆく。その頃の荷風こそ荷風らしいと思えるが、花柳界をテーマの「腕くらべ」「おかめ笹」、「つゆのあとさき」では銀座の女給を描いた。いいとこのぼんぼんから出発し波乱に満ちた断腸亭の生涯を、銀座尾張町という、世間から忘れかけた町名のみを提示し、その他はすべて背景にくらませた。


 数へ日や市場の下を川流れ             清水  道子

 戦後の市場は、駅や港近くの道路や広場などに、自然発生的に出来た。多くの場合、公共建物や寺などの塀に仮囲いを施したバラックであったが、復興の息吹とも言える賑わいを呈した。このような市場がやがて公設市場、マーケットなどに変わっていったが、多くは昭和の終焉と共に消滅した。この市場もそのような成り立ちであったかも知れないが、いまなお売り手と買い手の掛合いや、笑い声の飛び交う様子が浮かんでくる。思いがけぬ市場の立地場景と数え日によって、川に寄りつく人間ドラマが、ひととき懐かしく思い出された。


  浅草の虹田谷力三のボッカチオ       成瀬桜桃子

  田谷力三(たや・りきぞう)。東京は神田の生まれ。テノール歌手として浅草の観音劇場や金竜館の舞台に立ち、ボッカチオや天国と地獄などに主演、いわゆる浅草オペラの黄金時代を築いた。大正後期、オペラが庶民を熱狂させた――。この現象が何ゆえなるものか、筆者には想像もつかないが、力三の澄み渡る鈴の音のような声が、多くの人の心を捉えたことだけは疑いない。大正十二年の大震災により、浅草オペラは壊滅的な打撃を被り、その後急速に衰退した。まさに虹のごとし。〈 恋はやさしい 野辺の花よ… 〉は、ボッカチオの劇中歌である。


  柊の花や一生(ひとよ)の午前午後            手塚  美佐  

  一生と書いて「ひとよ」と読ませ、その長い期間を午前と午後に二分している。その断じ方が荒っぽいにも拘わらず、一句の雰囲気は妙にしっとりとしている。そして作者の意識は一生(ひとよ)の午後の部分に注がれており、その意識の方向に、柊の香りが重なってくる。句またがりによる韻律の力強さと、柊の気品がきびしい。


 朝市へ一番乗りの鼻曲鮭(はなまがり)        伊藤  京子

  鮭は産卵のため、生まれた川を遡り、上流で産卵を終えると死ぬ。生殖期に入った雄の吻部は突出し、著しく曲ってくるので俗に鼻曲りと言う。鮭の遡上はすさまじく、堰を跳び越え、滝へ挑む姿は感動的である。そのエネルギーに満ちた鼻曲りが、不運にも本懐を遂げる前に人間に捕らえられてしまった。  朝市の準備はまだ明けやらぬうちからはじまる。早々と入荷された鮭の異相を見た作者の一抹の感慨が、一番乗りと言う措辞を与えた。同時に、先陣を争うように一番乗りをした先が、上流の目的地ではなく朝市であったという見立てに、作者のユーモア精神も感じ取れる。


  雄略や芹摘む我に名を問はな           本郷  秀子

  古事記下巻、雄略天皇の条の「赤猪子(あかいこ)」という話が下敷きにある。倭の五王、武ともワカタケルノ命とも推定される雄略と引田部(ひきたべ)の赤猪子という里の女性とのとんだラブロマンスである。或る時、遊びにお出ましの折り、川で洗濯をしていた赤猪子を見そめ、召し上げるので嫁がずに待つようにと申しつけた天皇が、そのことをすっかりお忘れになり、八十年後に対面するというもの。結果はここでは省略させてもらうが、芹を摘んでいる作者、ふと古事記のこの微笑ましい逸話が思い浮かんだのである。シンデレラストーリーはいつの世も女のあこがれではあろう。問はなの「な」は終助詞、‥‥してほしい、のように願望、期待を表す。



 養花天さーもすたっと働きぬ               池田  澄子

  養花天という季語は字面がいかにも漢語ぽいが、桜の咲く頃の曇天をそのように言うのは日本人、それも俳人ならではの表現ではあろう。花曇といい養花天といい、美しい言葉であるが、その言葉に続き本来カタカナ書きすべき文字をひらかな書きとし、それも新かなで書き、全体を文語表現としている。内容を分析してみるとかなり複雑な構成であるが、無論作者はごく自然なバランス感覚でまとめたに違いない。作為がありとするならば、さーもすたっとの表記だろう。一読この平かなは何だと、素通りしかかったが、このヘンテコな表記が実はこの句の命みたいなもので、あとからカチンとスイッチが入ってだんだん効いてくるのである。


 似て非なるもの初晴の馬の貌(かお)        小出  秋光

  おめでたいだけに流れ易い正月俳句にあって、異彩を放つ一句である。鹿を指して馬となす、とは白を黒と言い張ることだが、本質的に両者は違う。ところが馬同士となると今度はまったく見分けがつかない。みな睫毛の付いた丸い眼で、どれもこれも馬面ときている。これが見る日によって変わるとも思えないが、作者の目には違うらしい。似て非なるもの‥‥とりわけ初晴の貌は違うと言い切っている。初晴は元日の晴天のことで、この日が晴れだと五穀豊穣と信じられ、一年の吉兆とされる。馬ほどの見分けのつかない貌であっても、この日の作者の眼力にかかれば差異が生まれる。午年に懸ける意気込みの現れというべきか。馬を見つめる作者自身の貌も、この日ばかりはいささか厳しい。


  ●曝しある良書にまじる一書かな        後藤比奈夫

  いわゆる虫干で、衣類や書籍を土用の晴天の日を選んで陰干しにする。曝書はいやしくも蔵書家たるもの、必須の行事だと思うが、筆者は一度もやったことはない。したがって時々本の虫が動いているのを見かけるが、紙を食うほどでもない。大体曝書をするほどのものは、古文書など書籍自体に値打ちがあるものだろう。つまり、いわゆる良書である。良書に混じる一書の「一書」についてつべこべ説明する必要はあるまい。このような書物は人目に付かぬように置いているため、本人も気がつかぬ内に、思いも寄らぬ曝書となりがちなのである。ご用心あれ。



  ●煙突にあはれ枝なき良夜かな               眞鍋  呉夫

  俳句では特に十五夜と十三夜を良夜といい、共に明るい夜。月光照らすところいよいよ鮮明に、影為すところいよいよ暗く、その彫り深い陰影が良夜の光景である。説明するまでもなく、煙突に枝がないのは当たり前である。しかしあまりにもあらわに、くっきりと直立している煙突。その無防備なほどの一本の姿、ありのままの真影に作者は詩情を覚えずにはいられなかった。昼間同じ煙突を見ても何ともなかっただろう。作者の感じたものは、煙突に形を借りた月光の姿にほかならず、良夜の為せる情趣と言うべきであろう。あはれ、かな、と古い道具立てながらモチーフは極めて新しい。


  手がありて鉄棒つかむ原爆忌        奥坂  まや

  鉄棒をつかむのは手であって、それ自体は当り前のことだが、原爆忌とくると俄に生々しい肉体としての手が意識されてくる。昭和二十年八月六日、広島上空に人類史上初の原爆投下がおこなわれた。忌々しい殺戮兵器への憤りを暗示させる鉄棒の取り合わせ、さらにそれをつかむ手。原爆への思いをひと言も述べてはいないが、かえって作者の強い意思が伝わってくる。言わずに言う。俳句ならではの強靱さ、緊張感が無言の主張となって一句に凝縮されている。


 ●秋灯を分けて男女の露天風呂               加藤  憲曠

  秘湯、露天湯ブームである。不便な山奥でも、露天風呂があれば客足は絶えない。鄙びた宿の灯と湯けむりは、都会人の郷愁をくすぐるのだろう。なかでも秋灯は、空気が澄み、肌寒さを覚える時候のせいか、人を引きつけるあたたかさがある。男湯と女湯を分ける衝立壁のすぐ上に、一個の電灯がぶらさがり、それぞれを等分に照らしている。壁の向こう側へ半分の光が注がれていながら、見えないのがなんともやるせない。こんな気分にさせられるのも、澄み渡る秋気と桶の響きのせいか。









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