蕉門――人と作品


服部嵐雪(はっとり・らんせつ)

江戸の湯島で生まれたと伝わる。宝永4年(1707)10月13日54歳没。雪中庵・玄峰堂などの号。蕉門十哲の一人で、芭蕉の死後、其角と江戸俳壇を二分し、門下に有名な俳人を多く輩出し雪門と称せられた。


左写真:
三韓人図(東京大学洒竹文庫蔵)  

若き嵐雪・其角・破(は)笠(りつ)が遊興・放蕩生活を送っていたころの図。二世市川團十郎の日記にこの生活ぶりが書かれていた。三名とも人気俳諧師として大成した。



 梅一輪いちりんほどの暖かさ
 一輪づつ咲くほどに暖かくなってゆく、春だなあ。と解釈されているが「寒梅」の前書。まだ冬だけど、一輪の梅が咲いた。その辺りだけは一輪ほど暖かい、というのが本意。



 蒲団着て寝たる姿や東山
 なだらかな曲線が続く東山三十六峰の描写。人が蒲団を着て寝ている姿に見立てた。季語は蒲団(冬)。以下白帆の感じ方だけど…これは山に雪が被さっている情景で、真の季語はひょっとして「雪」ではないか、と。



                      北野天満宮の白梅

 相撲取ならぶや秋のからにしき
 枕草子「めでたきもの」の段にめでたきもの唐(から)錦(にしき)。飾り太…略。とあり、上等な唐の織物の、見事な化粧まわしの関取衆勢揃いの景観。絢爛豪華なさまを唐錦で表現した。

 出替りや稚ごころに物哀れ
 出替りは 江戸時代の奉公人の交替日。稚ごころは主家の幼い子の気持ち。なついた奉公人との別れの情景句。

 黄菊白菊そのほかの名はなくもがな
元禄の頃江戸で菊作りが大流行し、新種が生まれる度に様々な名が生まれた。それに対し、菊は黄菊・白菊だけでよいではないか、と言っている句。其角は「我一生この句に及ぶと思ひもよらず」と絶賛し、以後菊の句は作らなかったと言われている。

 木枯らしの吹き行くうしろすがた哉
 芭蕉の句は「笈の小文」の旅から平明になってゆく。その旅立ちの送別に嵐雪が贈った句だとどこかの本で読んだ。この句の平明さは、芭蕉の句の変化に影響を与えたかも知れないと当時思った。ところが『虚栗(みなしぐり)』に入集しているではないか。そうすると4~5年前の作である。こういうことが時々あるので要注意である。但し送別にあたってこの句を嵐雪自身が選んだのかも知れないが――。

 はぜつるや水村山郭酒旗の風
「鯊(はぜ)釣(づり)」が季語(秋)。杜(と)牧(ぼく)の漢詩「江(こう)南(なん)春(のはる)」を本歌取りしているが、季節をあえて秋に変えているところに俳諧性がある。

 雪は申さず先ず紫の筑波かな
 雪景色の筑波山は勿論好いが、何と言っても春の紫に霞む筑波が一番だ。この句は芭蕉の『鹿島詣』の中に引用されている。


 

両の手に梅と桜や草の餅      芭蕉
  安永3年建立・岡山県下現存最古の芭蕉句碑
  妙法寺 (岡山市南区浜野)                            
元禄5年3月3日(桃の節句)深川に其角・嵐雪を招き<草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり>の前書入りの歌仙を巻いた。芭蕉が高弟を詠込んだ句として有名。



備中下庄(現:倉敷市下庄)の南瓜庵除風と嵐雪








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